
武ノ道
philosophy of The BUJYUTSU

武ノ道とは
武術や武道は相手や戦いに「勝つ強さ」ではなく「生きる強さ」を追求したもの。しかし一般的には格闘技と同じ「勝つ強さ」のイメージを持たれがち。もちろん、目の前の課題にコミットする「勝負強さ」は重要。しかし、その強さも包括した人間としての前提ともいえる礎は「生きる強さ」。「勝つ」ではなく「生きる」すべとして身体に留まらず精神までを追求してきたものが武術と言える。そして武術には、技ではなく「術をかける」という概念がある。この「術をかける」という概念こそが、物事を成す上での秘訣と言える。「衝突を起こさない」で人や物事を自然に誘導することが、まさに「術」である。この術という、曖昧な概念を明確に、かつ具体的に身につけられる術を伝えることを使命としている。

どうしようもない社会に不満を抱き
政治や教育、メディアなどに不満を抱え
もっと良い社会になれば良いのにと思っても
しかし現実は「何をやっても変わらない‥」
憤り
その現実に諦めニヒリズムに陥るのではなく
地に足をつけて変化を創る
調和

姿勢
内気でシャイな日本人が、英語を話せるようになった途端に急にフレンドリーなるといったことがあります。そして再び日本語に戻ると内気に戻る。こういった現象があります。これは日本語を話す日本語脳から、英語を話す英語脳に切り替わることで物事の捉え方まで変わり、別人のようになる現象として説明されています。
こうした現象と同じように、武術の独特な発想のベースとなる「武術脳」と言うものがあります。例えば、「押さずに押す」「投げずに投げる」と言うように武術では矛盾する2つの物事を両立させるというものが発想の前提にあります。
古来の日本人たちはまさに武術脳を持っていました。その特徴は「術」と言う言葉に会見えます。術とは目に映らない世界の制御法です。目に映らない「術」の世界と、目に映る「技」と言う世界の両方を捉えていたわけです。
一方で、現代に生きる私たちは目に映る世界をベースに生きています。つまり世界を構成する要素のうちの片方しか見えていないともいえます。相反する2つのことが矛盾するように映る理由こそが世界を片側からしか捉えていないため。一方で、目に映らない感覚でしか捉えようのない世界を基盤にして、目に映る世界までを捉えてきた古来の日本人たちには「押さずに押す」「投げずに投げる」が矛盾しないのです。これはまさに武術脳にあたると言えます。
この武術脳があったために日本の文化が世界で賞賛されるのです。今の日本の強みや価値の根幹は「術の世界を捉えていた」古来の日本人たちのコンテンツが土台にあるからです。しかし現代は「術」という目に映らない世界がみえなくなってきており文化から消えようとしています。これは日本人らしさを失うという意味で危機的なことだと感じます。
だからこそ「武術脳」を文化に取り戻す必要があると考えます。
ただし古来の日本人たちは、感じているものを認識はできても、認知はしていませんでした。認識とは意識に上がっているが感覚で捉えているため原理までは理解していない状態です。一方、認知とは、感覚的に認識したものを整理整頓して原理まで理解できる状態を指します。
武ノ道では、「術」という目に映らない世界の原理までをも認知できる状態を『武術思考』と呼んでいます。
そして武術脳を日本人に取り戻すのみならず、それらの原理までをも理解して人生そのものや教育、経営、スポーツ、エンタメなど様々なところで活かしてもらえるように「武術思考」に進化させてお伝えすることを使命としています。
「武ノ道」の武術
およそ600年前の戦国時代から馬場家という家系に継承された原始武術
馬場家だけで継承され、名をつける必要がなかったため名称はない
代々、馬場家のみで継承されてきた武術の継承者がいなくなり
「継承が途絶えるのも惜しい」と言うことで
特別に白川が受け継いだのが武ノ道の原型となる武術